DeepMind が9月8日、ヒトゲノムのどの1文字が別の文字に置き換わったときに分子のレベルで何が起きるかを、ありうる90億通りすべてについて計算済みで公開した。AlphaGenome Atlas という名前で、容量はおよそ1ペタバイト。タンパク質の構造を集めた AlphaFold のデータベースの30倍を超える。
新しいのは計算の中身ではない。順序が入れ替わった。これまでは調べたい変異が出てきてから回していたものが、いまは答えの側が先に置いてあって、引きに行く形になった。しかもコードを書かずにブラウザで開ける。
自分の遺伝情報について何かを知る順番が変わる話でもある。ただし、そこに置かれている答えは、まだあなたに宛てて書かれてはいない。
90億通りは、何を数えた数か
先に語の範囲を絞りたい。90億というのは、1文字が別の1文字に置き換わる変化だけを数えた数だ。文字が抜けたり増えたり、大きなかたまりごと入れ替わったりする変化は入っていない。遺伝性の病気の多くは、そうした変化や複数の要因が重なって起きる。1文字ぶんの予測がそろっても、病気の全体像が出てくるわけではない。
予測しているものも病名ではない。遺伝子がどれくらい読まれるか、RNA がどこで切り貼りされるか、DNA のどの部分が開いているか。分子が動く手前の性質を、ヒトとマウスの数百種類の細胞や組織について出している。AVI (AlphaGenome Variant Impact) スコアは、それらをまとめて1つの数字にしたもので、影響の大きそうな候補を先に見るための順位付けに使う。タンパク質を作る領域と、作らない領域の両方をまたいで付く。
計算する前に、引く
これまで研究者は、気になる変異が出てくるたびにモデルを回していた。カリフォルニア大学サンディエゴ校の精神疾患遺伝学者ジョナサン・セバット氏は、研究室の作業がかなり簡単になるとして、実際には何も計算しなくてよく、文字どおり全部を引けばいいのだと話している。
引くための入り口も一つではない。コードを書かずに使えるウェブの窓口があり、プログラムから叩く API があり、Google の開発環境 Antigravity から呼び出す口も同時に開いている。
成果も出ている。ブロード研究所の研究者が、原因の分からなかった希少疾患の症例で DNM1 という遺伝子の変異を見つけた。RNA の切り貼りの位置がずれるという予測が手がかりになり、実験で確かめられて症例が解けた。先に置かれた答えが実際に当たった、いまのところ一番はっきりした例だ。
無料で開くことに付いている条件
無料なのは非商用に限られる。製薬会社のような商用の利用者は Google Cloud 経由でライセンスを取ることになる。出力を別の機械学習モデルの学習に使うことも認められていない。
そしてもう一つ、利用条件にはっきり書かれている。予測は理論上のモデル化と研究のためのものであり、臨床上の判断に使ってはならない、医療その他の専門的な助言の代わりに頼ってはならない。DeepMind 側の説明も、これは専門家による医療上の助言・診断・治療の代わりになるものではないとしている。
精度も、規模の大きさとは別の話だ。AlphaFold のデータベースより30倍以上大きいが、当たり具合はそれよりかなり落ちる。DeepMind でゲノミクスを率いるジガ・アヴセッツ氏自身、どの細胞の種類や分子の過程を見ればいいか見当が付かないときに AVI スコアから始めるのはいい出発点になる、という言い方をしている。出発点であって、結論ではない。
自分の1文字を、どう扱うか
個人向けの遺伝子検査を受けたことがあれば、手元に自分の変異の一覧が残っている人もいる。窓口をブラウザで開いてその1文字を入れること自体は、いま技術的にはできてしまう。
できることと、そのために作られていることは違う。この予測が答えているのは、その1文字が分子の動きにどれくらい効きそうか、であって、あなたの体がどうなるか、ではない。細胞の種類が変われば効き方も変わるし、1文字だけでは決まらないものが大半を占める。臨床の判断に使うなと書かれているのは、控えめな注意書きというより、道具がどこまでを引き受けているかの線引きだ。
それでも、置かれ方は変わった。これまで自分の遺伝情報について何かを知るには、誰かに尋ねて順番を待つしかなかった。いまは、尋ねる前に答えの束のほうが先にある。順番が入れ替わったとき、自分は何を先に自分で確かめ、何は人に聞くと決めておくだろうか?