米証券取引委員会 (SEC) のヘスター・ピアース委員は 9 月 23 日、ニューヨークで開かれた SIFMA (米証券業金融市場協会) のデジタル資産会議で講演し、金融機関が口座を開く客ごとに名前・生年月日・住所・身分証番号を集めて確かめる今の仕組みを、「条件を満たしている」ことだけを証明する形へ移すべきだと述べた。ゼロ知識証明を使えば、相手は「この人は要件を満たす」とだけ知り、名前も収入も住所も知らずに済む、という説明だ。
口座を開くたびに運転免許証の画像を送ってきた側から見ると、預け先が減るかもしれない話になる。ただし講演は委員個人の見解で、規則はまだ一行も変わっていない。
干し草の山が大きいほど、針は見つけにくい
講演の題は「干し草の山に変化を探す」。ピアース氏がまず挙げたのは、顧客本人確認プログラム (CIP) による情報の収集と、大口の現金取引報告や疑わしい取引の届出だ。どれも詳しい個人情報と取引情報を含む。
そのうえで、集める量を増やすほど肝心の不正が埋もれると指摘した。山が大きくなれば、針は見つけにくくなる。同じ人の機微な情報が何十もの機関で複製・保管され、そのたびに漏れる危険にさらされている、とも述べている。この仕組みを回す費用は、悪意ある者を止める効果をはるかに上回っているように見える、というのが氏の評価だ。
提案は二つ: 属性で確かめる、確認を使い回す
一つ目は、項目を集める義務から、属性を確かめる方式への切り替えだ。検証可能な資格情報が年齢・国籍・適格投資家であること・制裁リストに載っていないことを証明できれば、それで取引を認めてよいとする。技術的に可能な範囲で、政府と規制下の機関をこの方向へ動かすべきだと氏は述べた。
二つ目は、確認の使い回しだ。今の CIP 規則は、一部の例外を除き、ほかの登録機関がすでに確かめた客であっても、各機関がそれぞれ集め直して確かめることを求めている。信頼できる規制下の機関が一度確認したなら、次の機関はその結果に頼るのを標準にしてはどうか、という問いかけだ。取引ごとに情報を集める金額の基準が低すぎないか、も見直しの対象に挙げている。
講演が触れていないこと
実際に変えるには越える壁がある。証券会社向けの CIP 規則は 2003 年、米国愛国者法 326 条にもとづいて財務省の金融犯罪取締ネットワーク (FinCEN) と SEC が共同で定めたものだ。SEC の一委員が方向を示しても、改めるには財務省側との足並みが要る。
講演は、資格情報を誰が発行するのか、発行元が破られたらどうなるのか、捜査機関が必要なときにどうたどるのかにも触れていない。確認を使い回す形は、最初の確認機関に情報が集まる形でもある。預け先の数が減る代わりに、一か所の重みは増す。
今ある写しの扱いも変わらない。同規則の下で証券会社は、客の本人確認情報を口座を閉じてから 5 年間保存する。解約した口座の写しも、すぐには消えない。米国の制度の話で、日本の口座にそのまま当てはまるわけでもない。
規則が変わる前に、手元でできること
一方で、自分の側の棚卸しは今日からできる。証券口座、暗号資産の取引所、フリマやシェアサービス、年齢確認のあるアプリ。身分証の画像や番号を送った先を書き出してみると、忘れていた預け先が見つかることもある。使っていない口座が見つかれば、閉じるかどうかを決められる。閉じても記録が一定期間残る場合がある点は、先に知っておきたい。
制度の側で確かめられる次の一点は、連邦政府の規制計画 (Unified Agenda) だ。春と秋の年 2 回公表され、各省庁が取り組む規則改正の一覧が載る。秋に出る次の版の SEC と FinCEN の欄に、本人確認規則の見直しが項目として入るかどうか。入らないうちは、この提案は一委員の見解にとどまる。
ことば
- CIP (顧客本人確認プログラム) — 米国の金融機関が口座開設時に名前・生年月日・住所・身分証番号を集めて確かめる仕組み。証券会社向けは 2003 年に FinCEN と SEC が共同で定めた。今回の講演はその集め方そのものを問い直した。
- ゼロ知識証明 — ある条件を満たしていることを、中身の情報を見せずに相手に納得させる暗号の技術。「20 歳以上か」に答えるのに、生年月日そのものを渡さずに済む。ブロックチェーンの分野で実用化が進んでいる。
- 属性ベースの資格情報 — 年齢や国籍など、一つの事実だけを証明する電子的な証明書。講演では、制裁リストに載っていないことや適格投資家であることの証明にも使えると例示された。
身分証の写しを、あなたはいくつの会社に預けているだろうか。その数を知ったうえで、次に口座を開くときに何を選ぶだろうか?